人の能力値、というものを

人の能力値、というものを考えることがある。




能力値、という言葉は、

ゲーム世代の者にしか耳慣れない言葉かもしれないが、

その言葉の通り、ある特定の人物の能力を数値化したものだ。



人物を数値化する、というのは何とも危険な発想だが、

ゲームは数字遊びの世界なので、目に見えないものをすべて

数値化してしまう必要がある。



あくまでゲームの中での話、というところから事例を挙げていこう。




ゲームの能力値といえば、

体力があるのかないのかを表す「体力値」や、

頭がいいか悪いかを表す「知力値」などが代表例だ。



剣と魔法のファンタジーの世界では、

体力値の高いものがより剣を振り回して強く、

知力値の高いものが数々の困難な魔法の業を使いこなす。



人物ごとの能力の高低を表す数値、というより、

職業としての得手と不得手を表すための数値、という

意義のほうが勝るだろう。



ファンタジーというジャンルでは、

あくまで架空の人物が登場するのが主なので、

この数値設定に特に面白さを感じることはない。



だが、

三国志」といった歴史ゲームになると、

この数値が、実に面白い存在となってくる。




三国志には、知力値・魅力値・武力値の3つの能力値がある。

この3つの値を、順序をバラバラにして、

A値、B値、C値、に置き換え、

"桃園の誓い"でお馴染みの三義兄弟の数値を表記してみよう。



劉備:A値・・・74 B値・・・71 C値・・・100

関羽:A値・・・99 B値・・・85 C値・・・88

張飛:A値・・・99 B値・・・25 C値・・・40



三国志を知る人なら、どの値が何を表すのか、すぐに分かる。

A値が「武力値」、B値が「知力値」、C値が「魅力値」である。

劉備はカリスマ、関羽は文武両道、張飛は筋肉馬鹿、

という図式だ。



関羽張飛の武力値が、同じ99点というのは、

張飛が惨めな気もするが、かといって

関羽のほうが武力値が低い、となると、こちらのほうが

物議を醸しそうなので、まあ無難な収まりどころといえるだろう。



こうなると、諸葛孔明の「知力値」が気になるところだが、

武力値:65 知力値:100 魅力値:95



さすがに知力値はゲーム最高の100である。

魅力値も非常に高いので、劉備が彼に遺言を残す際に、

我が子に国を治める才が無ければ替わりに国を治めてくれ、

といった理由が伺える。



ちなみに、その劉備の息子の能力値は、

武力値:41 知力値:15 魅力値:62 である。

目も当てられない。




また、面白いことに、

3つの能力値の最高点"100"を持つ人物は、

ゲーム中において、それぞれの能力値に1人しか存在しない。

魅力値100を持つのが、劉備玄徳。

知力値100は、諸葛孔明

武力値100は・・・かの呂布奉先である。

おお!やっぱり!と頷けてしまう。

このあたりの、三国志ファンをうならせる数値設定が、

なんとも憎らしいではないか。




信長の野望」なるゲームでも、同じ3つの能力値が登場する。

ちなみに、それぞれの能力値の最高点100を持つ人物は、

魅力値100、優れた人材を配下に集めたカリスマ、織田信長

知力値100、智謀ひとつで地方国家を築いた、毛利元就

武力値100、軍神・毘沙門天の化身、上杉謙信、である。

ちなみに、魅力値の次点は松平元康(のち徳川家康)の97点、

知力値の次点は黒田官兵衛(如水)の98点、

武力値の次点は真田幸村の97点である。

これまた通を唸らせる。

じゃあ、山本勘助は?柴田勝家は?

山内一豊はどうなのよ?などと興味が沸きあがり、

ゲームをそっちのけで、能力値システムにハマっていくのは、

歴史オタクの悲しい性である。

しかも、そういった悲しい人たちのために、

ご丁寧に「登場人物能力値データブック」なる本まで

発売されていたりする。面白いものだ。




こういった能力値システムは、いまやゲームをやる上で

当たり前に存在するシステムとなっている。




が、実は、こういったシステムには、

ひとつの起源があることをご存知だろうか。




それは、テレビゲームが台頭する以前に存在した、

「テーブルトークゲーム」だ。



テーブルトークゲームとは、その名の意味する通り、

テーブルを囲んでトークをしながらゲームする、というもの。

テレビゲームとの大きな違いを挙げるなら、

テーブルについた一人一人が、

ひとつのキャラクターになるということ。




例えば、

三国志をテレビゲームでやるなら、テレビの前に座ったものが、

ひとりで多くのキャラクターを操作することができる。

が、テーブルトークゲームにおいては、

田中くんが劉備、山下くんが関羽、伊藤くんが張飛

といったように、それぞれがひとりの人物を演じることになる。

そのテーブルには、マスターという役割のものが一人いて、

ゲームを制作、進行する。



そしてこのゲーム、

これまで説明したテレビゲームのように、

武力・知力・魅力といった3つの能力値ではなく、

更に複雑な種類の能力値を必要とする。




例えば、道を進んでいると大きな穴があったとしよう。

テレビゲームであれば、単純に「Aボタンでジャンプ」し、

タイミングがよければ穴の向こうに無事に着地し、

悪ければ穴に落ちてサヨウナラ。

だが、テーブルトークでは、そう簡単にはいかない。

穴を飛び越えるためには、

「敏捷値」という能力値がある。

その数値に基づき、

"その穴をジャンプして飛び越えることができる確率"

を弾き出す。

そのパーセンテージをクリアするために、100面サイコロを振る。

このサイコロの目によって、

そのキャラクターが穴を越えられたかどうかの運命が決まる。




このように、

登場人物のあらゆる行動を、"能力値"をベースにして進めていく。

穴を飛ぶだけでなく、人を説得したり、物を持ち上げたり、

宝箱を開けたり、とっさの判断で窮地を脱したりと、

あらゆる行動に対してそれぞれの能力値を必要とするので、

その設定の細かさは尋常ではない。



そして、これらの細分化された能力値システムを見ていくと、

これがかなり面白い。




「体力」・・・肉体的な力。健康さ。筋力。

「知性」・・・頭の良さ。頭の回転の速さ。発案力。

「教養」・・・物事を知っている量。分析能力。

「敏捷」・・・身の軽さ。運動神経。行動力。

「器用」・・・手先の器用さ。操作能力、事務処理力。

「精神」・・・我慢強さ。意思の強さ。気力。

「魅力」・・・人を惹きつける力。リーダーシップ。統率力。

・・・とまあ、こういった能力値が主体になってくる。




これを、今の世の中の様々なケースに当てはめてみると・・・



学校の勉強はロクにできないのに、

先生を困らせる数々の悪戯を思いつく子は、

教養値が低く、知性値が高い、と考えると興味深い。



どの会社にも、あれやこれやと企画を思いつくが、

どの企画も途中でおざなりになってしまい、

結局、形にできない社員がいるものだ。

この社員はおそらく、

知性値は高いが、精神値が極めて低い、といえるだろう。



とても物識りだということで、会社のプロジェクトの一員に

加えてみたところ、会議の時には活躍するのに、

いざ現場、となると遅れをとる社員がいる。

彼は、教養値が高いのだが、敏捷値が低い。



遅刻常習犯で、机の上の整理もできない、

見た目には明らかにダメ社員なのだが、

なぜか周囲に可愛がられて、

意外と出世してしまう社員もいる。彼は、

精神値と器用値が極めて低いのだが、魅力値が高い。




・・・こうして当てはめていくと、

はて、自分の能力値はどうなのか、と思う。



値のほどは分からないが、自分が、

自分自身の能力値の中で最も関心が強いのだろう、

と思われるのが、知性値、であることは間違いない。



なぜなら、自分よりも知性値が高い思われる人間には、

嫉妬心を感じることがあるからだ。

恥ずかしい話だが、事実だから仕方ない。



しかし、

自分よりも"遥かに"知性値が高い、と認められる人間には、

逆に深い尊敬を覚える。

そういう人物と出会えることは、とても幸せなことで、

今でも3人ほど極めて知性値の高い友人がいるのだが、

それぞれひとりひとりと仲良く付き合っている。



まあ、自分は知性が高い、などと思うほど自信家ではないが、

他人の知性値に対して、様々な感情が内面から湧き出てくる

ことを考えると、自分の知性値に多少なりとも自負心がある、

ということだろう。




逆に、そういう意味で最も自負心の少ないものが、教養値だ。

いろんな物事をよく知っている人間に出会うと、喜びを覚えて、

そういった人間に、よく自分の無知さをカラッと打ち明け、

仲良く付き合ったりしていることがある。これもまた幸せなことだ。

教養値、というものは、インターネットという優れたツールの台頭で、

昨今ではその必要性が幾分薄くなってきているという面もある。

が、会議や飲み会の席のようなライブ環境において、

この能力値は、良くも悪くも、絶大な効果を発揮する。



自分など、ある飲み会の席で、誰かの話の最中に、

「その話は、俺のカンセンに触れるなぁ」と相槌を打ったことがある。

すかさず、

「なぜこの話で、君は汗をかく必要があるのか?」と返された。

なるほど、琴線というのは"キンセン"と読むらしい。

これだけならまだ救われようものだが、

実は、「汗腺(カンセン)」という言葉の存在を知らなかった。

この話だけでも、自分の教養値の低さを露見するに十分だろう。




また面白いことに、

"知性は良し、教養は悪し"というタイプの人間は、正反対の、

"知性は悪し、教養は良し"というタイプと、ウマが合うものらしい。

自分にもこのケースに当てはまる古い友人がいて、

時に互いの短所を笑い飛ばし、

時に互いの長所で相手の短所を補い合いながら、

実に良い付き合いをしている。

これもまた、人間関係の妙というものだろう。




体力値にはあまり関心はない。

が、以前、うちの会社と取引をする運送会社を決めるときに、

S社とN社の二社を比較検討し、価格が同じラインに並んだので、

どうしようかと悩んだ結果、

両社の営業マンの見た目の違いで、S社に決めたことがある。



S社は2名で営業に来て、

1名は教養値と魅力値が高いタイプで、

営業プレゼントークをバリバリと繰り広げたが、

もう1名は、あきらかに体力で生きているタイプで、

僕はどんな重たい荷物でも運んでみせますよ、と言わんばかりの

堂々とした笑顔で、何ひとつ話さずにドッシリと座っていた。

彼の溢れんばかりの体力値に負けたといって良い。




前述したことだが、

人間というものを数値化する、というのは危険な発想だが、

ある人のある一点を客観的に分析するための方法として、

人の能力値というものを考えるのは、アリなんじゃないかと思う。



昔、学校の担任だった偉そうな先生が、

偉そうに自分に言ってくれたことがある。

「人には欠点もあり美点もある。誰かに腹を立てたのなら、

その人のいいところを見るようにすればいい。

そうすれば腹も収まるものだ。」



そのとき、同じクラスの男と、喧嘩して腹を立てていたのだが、

先生にこのようなことを言われたので、自分の怒りを沈めて、

こんな野郎のどこにいいところがあるのかと、考え込んでみたところ、

そういえば、彼がクラスの中でも、目立っていい顔をした美男子で、

クラスの女性達にいつもモテモテだということを思い出し、

さらに怒りの度合いが増したことがあった。



あの子供の頃の自分に、

人の能力値、という概念が頭にあったのなら、

もう少しマシな事態になっただろうに、と、

今更ながら後悔の念に浸ってしまう。




END