嬉し悲しいジブリ人生だった

嬉し悲しいジブリ人生だった。




小学生の頃に観た「風の谷のナウシカ」に始まり、

昨日、映画館で観た「ゲド戦記」に終わったジブリ人生。

そう・・・昨日の夜、確実に終わったのだ。




映画というのは、多くのお客さんの夢と期待と、

作品に携わった人達の想いが込められているから、

その映画が上映されている期間に、

「面白かった」とか、「面白くなかった」とか、

そういう批評をすべきではない、と自分は思っている。




ただ、「ゲド戦記」は、

自分の中の"ジブリの定義"を、完全に塗り替えてくれた。






"飛ぶジブリは面白い、飛ばないジブリは面白くない"

という定義が自分の中に産まれたのは、

「平成たぬき合戦ポンポコ」のときだった。



映画を観終わって、この胸のモヤモヤは何だろう、と

思いながら映画館を後にし、エレベーターに乗った。

すると、ひとりの女の子が、手を引く自分の母親に、

"ねぇ、たぬきさん、飛ばなかったの、どうして?"

と言っているのを隣で聞いて、胸のモヤモヤが晴れた。



ナウシカメーヴェーに、パズーはフラップターに乗り、

キキはホウキにまたがり、ポルコ・ロッソは飛行艇

操り、トトロはコマを回して、皆、大空を飛んだ。

だが、たぬきは、飛ばなかった。



妙な表現になるが、

大空を飛ぶ、というシーンにおいてだけは、

ジブリは他のアニメ作品の追従を許さない。

だが、大空を飛ぶというシーンを省いてしまえば、

べつにジブリでなくとも面白い作品はたくさんある。



"飛ばないジブリは、ただのアニメ" なのだ。



それと同時に、"飛ぶジブリは、かならず面白い"

そう、ずっと信じてきた。




ゲド戦記」。



いよいよラストシーン、というところで、

自分は、ただひたすらに、




お願いだから、大空を飛ばないでくれ・・・・。




と、祈り続けていた。




だが、見事に、飛んだ。



自分の中のジブリ定義のひとつが、これで壊れた。






"宮崎作品はアタリで、高畑作品はハズレ"

という定義が生まれたのは、

おもひでぽろぽろ」のときだ。



天空の城ラピュタとなりのトトロ魔女の宅急便と、

傑作アニメを立て続けに発表して、勢い上がるジブリ

ブランドに、初めて疑問符が打たれた作品が、コレ。

「なんだこれ?ただのアニメやん」という感想だった。



駄作、とまでは言わないが、なにもジブリブランドを

銘打つ資格は無いのでは、と感じた。



すぐ後に、この作品が宮崎監督のものではないことを

知り、ああ、それなら仕方ない、と自分を納得させた。



それを証明するように、その二年後、宮崎作品である

紅の豚が公開され、さすが、と納得させられた。



「宮崎作品は絶対に面白い」

これが、自分の中の揺るがぬ"ジブリの定義"だった。




昨日、映画を観に行こう、と友人達を誘ったところ、

そのうちのひとりが、"パイレーツ・オブ・カリビアン"か、

"MI鄴"を観よう、と言い出した。

正直どれでもよかったのだが、頭に浮かんだのは、

「宮崎作品は面白い」という定義だった。



今回の監督は、宮崎という苗字こそ同じだが、

駿監督の息子の吾郎さんの作品だ。

だが、そんなことはどうでもよかった。

高畑じゃなくて、宮崎、それだけでよかった。




ゲド戦記」。

いよいよラストシーン、というところで、

自分は、ただひたすらに、




お願いだから、最後のスタッフロールで、

"宮崎"という文字を出さないでくれ・・・・。




と、祈り続けていた。




そんなことが起こるはずもなく、スタッフロールには

高々しく、"宮崎"の文字が流れた。



自分の中のジブリ定義が、またひとつ、壊れた。






・・・・・・映画というのは、多くのお客さんの夢と期待と、

作品に携わった人達の想いが込められているから、

その映画が上映されている期間に、

「面白かった」とか、「面白くなかった」とか、

そういう批評をすべきではない、と自分は思っている。




だから、「ゲド戦記」についての批評は、あえてしない。




ただ、

ひとりの人間の、"嬉しくも悲しいジブリ人生" が、

昨日、静かに幕を閉じたのだ・・・・・・。







あ、最後に三文字だけ書いておこう。



金返せ





END